歴史
ウクライナという国は、ヨーロッパ三大民族の中で最大のスラブ人により形成されている国家です。宗教はキリスト教でオーソドックス(正教)と呼ばれ、ギリシャ正教に端を発します。
もともとは、キリスト教はローマ帝国の宗教で宗派であるカトリックもプロテスタントもオーソドックスも無かったのですが、ローマ帝国が東西に分離したことで派閥化していきました。
文献に登場するのは古くは古代ギリシャ時代までさかのぼります。
ヨーロッパにおいてフランスについで二番目の国土をほこる大国であり、日本にはあまり馴染みの薄い、しかし世界で観光客が13番目に多いヨーロッパの古都である、ウクライナの歴史について述べてみたいと思います。
ウクライナのキエフ市と京都、オデッサ市と横浜は姉妹都市というのも、あまり知られていません。横浜とは1965年、京都とは1971年に姉妹都市となっており、長い歴史があります。
★ウクライナの地が最初に文献に登場するのは紀元前8世紀頃である。
古代ギリシャ人の吟遊詩人ホメロスが、黒海北岸の民族について記している。彼は、その土地をキンメリア人の土地と呼んだ。彼らは乗馬が得意で、この地に鉄器をもたらした。
余談だが、英雄コナンという映画の主人公(アーノルド.シュワルツェネッガー主演)はキンメリア人の設定である。
ホメロス
その後、紀元前700年頃にスキタイ人が強大な軍事力でキンメリア人を追い払いやってくる。彼らは遊牧の民と農耕の民からなり、イラン系民族であることが判明している。このことは、古代ギリシャ、ローマの著述家が記している。特に歴史の父と呼ばれるギリシャのヘロドロスは、ギリシャの町を襲った世界帝国ペルシャを撃退したスキタイ人に対して好意を持っていた。
スキタイの黄金製の櫛
女性の胸飾り
彼らの神話が朝鮮を経て、日本の文化に影響を与えたという学者もいる。たとえば、三種の神器などである。
代々の王は、ギリシャ神話のヘラクレスの子孫と神話で述べられている。
スキタイのアナカルシスといわれる人物はフイゴやロクロの発明者とされる。彼らは金細工に関しても見事な技術を持っていた。この地はギリシャ神話では、辺境の野蛮な地として記される場合が多いが、実際はギリシャからは海の幸、スキタイからは穀物との貿易が盛んであった。
★スキタイの滅亡とサルマタイ人の侵略(紀元前4世紀頃)
同じイラン系のサルマタイ人の緩やかな侵攻により、栄華を極めたスキタイはクリミヤ半島に追いやられ、ゴート人の侵攻により、3世紀半ばに滅亡した。しかし、500年間この地を平和に統治したのは特筆すべきであろう。
イギリスのブリテン島に伝わるアーサー王伝説は、ブリテン島に駐屯していたローマ帝国の傭兵軍団サルマタイ人の神話に良く似ているため、サルマタイ人の史実がベースとなっているとも近年いわれる。
その後、サルマタイは500年間統治したが、ゲルマン系ゴート族、ブルガール族、フン族が相次いでこの地に進入して、7世紀半ばで大した文化も残さず統治を終えた。
ゴート族
このころ、東ローマ帝国が頭角を現してきた。6世紀のユスティニアヌス大帝の時代には、現在のウクライナのセヴァストーポリではビザンツ文化が栄えた。この地の遺跡はウクライナの紙幣に印刷されている。
ユスティニアヌス大帝
★ウクライナの前身 キエフ・ルーシ大公国の誕生(紀元862年)
キエフ・ルーシ大公国は中世ヨーロッパに燦然と輝く大国であった。最盛期のヴォロディーミル聖公の時代はヨーロッパ最大の領土を誇った。彼の子供ヤロスラフ賢公は自分の娘達をフランス、ノルウェー、ハンガリーなどの国に嫁がせるだけの力があり、ヨーロッパの義父とまでいわれていた。今もその子孫が各国の王室に存在する。
この国は、版図は北はバルト諸国から南は黒海沿岸までで、ほぼ現在のウクライナと規模、位置と同じであり、ウクライナ国の前身とされる。さなみに、ロシアはこのころモスクワ公国と呼ばれ、キエフルーシ北東部にある小さな公国であった。また、この地は、ヨーロッパ三大民族である、ラテン、ゲルマン、スラブのうち、最大民族であるスラブ民族の故地とされる。
ウクライナの修道院で発見された古書「原初年代記」(過ぎし年月の物語ともいう)によると、6世紀後半にポリャーネ氏族の三人の男兄弟と1人の妹によって町が最初に作られたとされている。彼らの像はキエフ市内に建っている。
源初年代記保管されている博物館
三兄弟と妹
その後、バイキングの異常な人口増加により、ルーシにブァイキングが現れ、前述の氏族とともに国家を作っていく。リューリク王朝の始まりである。
リューリク王
907年には2,000席の船で東ローマ帝国を攻め、自国の貿易を有利にはこんだ。
紀元900年頃に女帝オリガはキリスト教の洗礼を東ローマ帝国よりうけ、その後キリスト教は国教となっていく。
女帝オリガ
時の東ローマ帝国皇帝は、その美貌と知的さに引かれオリガに求婚したが、外交交渉が有利に終わると、求婚をオリガは断った。
後に、ウラジーミル大公(聖公)は、987年に10人の家来たちに各宗教を調査させ報告を受け、祖母オリガの洗礼に続き、988年に洗礼を受けた。そして異教の偶像を破壊するよう命じた。
彼は、ギリシアからキリスト教を受け入れ、教会スラブ語での典礼が行われ、ギリシャ・ローマに次ぐ第3のキリスト教圏を確立した。
ウラジーミル大公
★キエフ・ルーシの衰退の始まり
大公国の諸侯たちによって公国が分割されはじめ、内部権力闘争にあけくれるようになっていく。
その後、紀元1200年頃からモンゴルが進入したり、西ヨーロッパとの貿易ルートの変更等で、経済力が低下していく。
★モンゴルの支配
モンゴル帝国が侵攻し、ルーシの地はモンゴル帝国に征服された。
征服されたが、公国の存続は維持された。自治権は認められ、税を納める必要があった。
アレキサンドル・ネフスキー候はスウェーデン、ドイツ騎士団と戦ったが、モンゴルとは交戦せず、税を納めた。公国の一部であったロシアの前身のモスクワ公国は従順に税を他の公国から徴収しモンゴルに納めたため裕福となり、後にロシア帝国を築く。
また、東西ヨーロッパの交易が盛んになり、イタリア商人の進出もめだった。その中には1298年に書かれたといわれる『東方見聞録』を記したマルコポーロもいた。
マルコポーロ
★ハーリチ・ボルイニ公国 最後のルーシ、ウクライナの直系国家
ルーシ公国の国々のなかで、1240年のキエフ陥落後も1世紀程度存続した公国である。この国が、後のウクライナによく似た版図もっており、人口も現在のウクライナの9割を有しており、その
後のウクライナ建国、歴史感に大きく影響することになる。
この国は、ウクライナの直系の国とよばれる。
このころのキエフは5万人の人口を抱えていた。
ロンドンがこの人口を抱えるには、1世紀も後になる。
君主のダニーロの時代に、ダニーロはローマ法王に十字軍によるモンゴルの駆逐を求めたが実現しなかった。しかし、法王よりルーシの王との称号、王冠を得る。
ダニーロ
ダニーロの死後、リトアニアとポーランドに併合される。そして、近代までウクライナ国を引き継ぐ国家は現れなかった。
★民族の分化 リトアニア・ポーランド時代
この時代は17世紀半ばまで300年間程度続き、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの三民族に分かれた。言語も分化していった。
ウクライナという言葉が生まれたのも、又コサックが生まれたのもこの時期である。
・リトアニアはルーシ公国のほぼすべての範囲を勢力圏に入れ、当時のヨーロッパとしては最大級の国家であった。彼らはキリスト教徒ではなかったが、ルーシ化しキリスト教に改宗していった。そして、言語、分化までもルーシ化、スラブ民族化していった。歴史学者は、このことにより、キーフルーシの伝統は、リトアニアによって継承されたとしている。
・リトアニアの次にウクライナに触手を伸ばしたのはポーランドだった。ポーランド人は同じスラブ系だが、カトリックを信仰していたため少し異なった文化となった。ポーランドはリトアニアと異なり、自国の文化を押しつけた。14世紀の中頃にはウクライナ西部はポーランドに組み込まれ、第二次世界大戦までの4世紀半までの長きにわたった。この地域は一度もロシア帝国の一部として組み込まれず、西欧の影響が強い。ソ連の一部になったのは第二次世界大戦後である。よって、現在もロシアを好まず、独立心が高い。
ポーランドはリトアニアを後に併合する。
★コサック
コサックとはリトアニア・ポーランド時代から南部のステップ地帯に存在した武装した自由の民といわれる集団のことである。彼らは、通常は国家に属さず、農業等を営み、有事の際は武器を取り戦った。また、モンゴルとかオスマントルコを襲ったりもした。異民族からキリスト教徒の奴隷を解放したりもした。彼らの軍事力は肥大化し、国家、十字軍がその力を利用したりした。
コサックを描いた絵
彼らの政治は平等の原則と、全体会議からなっていた。
ウクライナ人の自由を尊ぶ精神はこの辺りにあるのかもしれない。この点でもモスクワ公国を前身とする封建性を好むロシアと異なる。
★ロシアとオーストリア帝国の支配
18世紀末から120年間は8割がロシア帝国、2割がオーストリア帝国に支配された。
19世紀末はロシア帝国部はウクライナ南部で工業地帯化が進んだ。
一方、オーストリア帝国側は、ロシア帝国と異なり専制政治色は薄く、自由な雰囲気があり、今でも、ロシア、ソ連色の薄い所であり、独立精神が旺盛である。
★第一次世界大戦後
大戦後、ソビエト連邦が誕生し、民族自決の原則から旧ロシア帝国の一部であった、バルト三国とフィンランドが独立した。オーストリア・ハンガリー帝国のポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーも独立を果たした。しかし、一番多くのパワーと犠牲を払ったウクライナは独立を果たせなかった。原因は分断されたウクライナの人々はロシア側とオーストリア側の双方でお互いを敵として戦わなければならなかったためである。1917年、数々の独立 運動の結果、ウクライナはソビエト連邦内にウクライナソビエト共和国とという構成国してスタートし、その後70年間存続することになる。
ちなみに、ソ連下でも国連の議席をウクライナ国として持っていたことは、日本ではあまり知られていない。ソ連はロシア国を含めて三つの議席を持っていた。
★1945年 第二次世界大戦終結
ドイツ軍の焦土作戦により、キエフの85%が破壊された。先の大戦と同じく、ウクライナ人はソビエト軍(200万人)とドイツ軍(30万人)の両軍で戦わ
ざるを得なかった。
ドイツ軍を解放者として歓迎するウクライナ人たち (1941年)
ソビエト軍と戦ったウクライナ軍
ドイツを解放軍と考えていたウクライナ人は歓迎したが...
今回も独立ははたせなかったが、ポーランド、ルーマニア、ハンガリーから得た領土により領域は拡大した。これらの領土は、ソ連の下、ウクライナ共和国としてまとめられた。ここに、キエフルーシ以来歴史上初めて、他国の干渉しないまとまった国土が復活した。ドイツにいたウクライナ人200万人は帰国したが、25万人は帰還兵に対するソ連の虐待の実体を知ると、帰還を中止した。残されたウクライナ人は、アメリカや、カナダへ移住した。
両国にはあわせて250万人以上のウクライナ人が住んでいる。
ウクライナでは、大戦終結後もソ連に対してパルチザン活動(UPA)がつづくが、関係者のシベリア流刑、暗殺などで1956年に終わった。周辺国が全てソ連の衛星国という中で、これだけの期間、活動がつづいたことは、驚異であるとともに、ウクライナにおける民族主義の根強さが良くわかる。
★スターリンの死去後
スターリン
1953年にスターリンは死去し、フリシチョフが書記長となった。かれは民族主義を緩やかに認め、ウクライナで暮らしていたせいもあり、ウクライナに対する政策は寛大であった。クレムリンでのウクライナの地位は上がった。第一書記は例外なくウクライナ人となった。ウクライナ人より元帥、国防省、日本大使なども輩出した。
フルシチョフ
1964年にブレジネフが書記長となった。彼はロシア人であったが、ウクライナ生まれであり、出世のため、ウクライナ人と偽っていた。この時代はウクライナに対し、言語のロシア化が計られた。当然ウクライナは望まなかったが、出版物の規制等により余儀なくされた。
ブレジネフ
しかし、ウクライナはソ連の穀倉であるとともに、工業化とともに都市化が進んだため、労働力として好んでロシア人が多く流入してきた。このことが現在、問題となっているひとつである。
★1985年 ゴルバチョフの時代
ゴルバチョフ
ゴルバチョフはグラスノチス(情報開示)とペレストロイカ(再建)を提唱して実施したが、情報開示のみが民族主義等の負の力となってクレムリンを襲い、再建は既得権益のグループに阻まれた。
就任1年後にチェリノブイリ原発の事故があったが、政府はしばらくこの事故を伏せた。このことにより大きな人的被害を被ったため、政府に対する不信感が大きくなった。ソ連第一の重化学工業地帯になっていたウクライナはその他の環境もおかされており、不信感は膨れ上がった。
その後、過去の粛正等が明らかになったり、民族主義が台頭し、ウクライナ語法が1989年に制定されたりした。禁止されていたウクライナ民族国旗も公の場にでてきた。ユニエイト(ギリシャ正教)、ウクライナ正教も認められた。1989年に第一書記が失脚すると、新たな第一書記のもと新生政治手法がスタートしていく。
1990年には最高議会で、初めて共産党以外の党である国民運動組織ルーフが妨害にも関わらず1/4の投票を得た。
★ソビエトからの独立
1990年6月、かねてから独立志向を強めていたロシア連邦は主権宣言を行った。7月にはウクライナも最高会議で主権宣言を行った。この時点では未だ、ソ連から離れるとは記されていなかった。
ゴルバチョフは離散傾向の連邦の維持に必死だったが、1990年3月にはリトアニアがソ連を離脱すると宣言した。
1991年にはソ連保守派がウクライナのクリミアでゴルバチョフを拘禁し、権力委譲をせまったクーデター事件をきっかけにソ連は解体へと大きく舵をきっていく。このことはロシア最高会議議長エリツィンの抵抗により成功しなかった。これにより権力は実質上エリツィンに移った。
エリツィン
1991年8月、ウクライナは独立宣言を発した。国名は単純にウクライナとなった。最高会議はクーデターに荷担したという理由から、共産党を禁止した。そして、9月には国旗、国歌、国章が法制化され
た。国歌は「ウクライナはまだ死なず」、国章はウラディーミル聖候の国章
「三叉戟」であった。
三叉戟
ウクライナの宣言の後、他のソ連構成国から次々に独立宣言がだされた。
12月1日、完全独立の是非、初代大統領の選出のための国民投票を実施。90.2パーセントが独立の支持をした。
12月7日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国首脳によりソ連の解体を宣言。ゴルバチョフも巻き返しにかかるが、中央アジアの連邦国がエリツィン側につきかなえられなかった。
21日、カザフタンでソ連構成国の11カ国の首脳が調印し、70年の歴史を持つソビエト連邦は消滅した。ポーランド、ハンガリーは直ちにこのことを承認、カナダもそれに続く。アメリカは24日に承認した。日本は28日に承認し、1992年1月、外交関係樹立。
この独立宣言は、20世紀入って6回目のものであったが、やっとかつてキエフルーシ大公国時代からウクライナ人が住んでいた、殆どの地域を網羅する国家が復活したことになる。また、流血が無く平和的におこなわれたことも特筆すべきである。
★ウクライナの将来性
ウクライナは大国になりうる潜在性がある。まず、国土はロシアに続きヨーロッパでは第二位である。
人口はフランスに匹敵する。鉄鉱石はヨーロッパ最大規模、農業では世界の黒土地帯の30%を占め、ヨーロッパのパン籠といわれ、今世紀に食糧危機が勃発したときに救うことの出来る国の1つとされ、各国が注目している。耕地面積はフランスの倍、日本の全土に匹敵する面積を有する。
穀倉地帯
かつてはソ連の工業地帯であり、米国と二分した宇宙科学、軍事産業も多く、優秀な科学者、技術者を有するなど、教育レベルが高い。
外交も大国が持つ傲慢さが無くバランスの取れた外交を行っている。
ウクライナは過去の歴史にみるようにヨーロッパでは大変重要な位置にある。それは、軍事的、経済的に他国の干渉を得てきたことにみられる。逆にいうとウクライナがどうなるかによって東西ヨーロッパ、あるいはロシアとヨーロッパの関係がきまってくる。そういった意味でEU、NATOはウクライナを取り込むのに必死だが、ロシアの抵抗で実現していない。
■物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)を記された、ウクライナ大使経験者、黒川祐二氏は下記のように、ウクライナの知人に申されたことを記されている。
「ウクライナ在勤時代、ウクライナの人たちに、ウクライナと日本は全く共通点がないと思っているかもしれないが、そんなことはない。お互いに古い歴史と文化を持ち、それを大切に守ってきたこと、とくにコサックと侍は勇気、名誉、潔さなどの共通点をもっており、これが現代にもうけつがれていること、両国とも農業を基礎とした社会であったこと、両国とも石油、天然ガス資源に恵まれていないこと、しかし、教育には熱心で教育水準が高いこと、両国が世界で核の悲劇の直接の被害者であったこと、お互いに共通の隣人があり、問題を抱えていること、などといったものだ」
物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)